【ワーホリ体験談】オーストラリアワーホリの1年間を時系列で詳しくまとめてみました。

オーストラリア移住

ハマタイ
ハマタイ

Software Enginnerとしてオーストラリア移住を目指している

ハマタイ(@hamatai_7109)が記事を書いてます!

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以下、簡単なプロフィールです。

  • Software Engineerとしてオーストラリア移住が目標
  • 福岡在住のフロントエンドエンジニア
  • 副業でWeb制作と某プログラミングスクール講師
  • 前職は教育業界のコンサルタント
  • オーストラリアで1年間ワーホリ経験
  • アフリカ・ウガンダでサッカーチームを運営
  • 趣味はサッカー/キャンプ/サイクリング/旅行/日本酒
  • 毎月5冊以上は本を読みます(ジャンルは問わず)

はじめに

2019年4月から2020年3月までの約1年間、オーストラリアワーホリを経験しました。今となっては「出稼ぎ」のようにメディアで煽られていますが、当時はまだそこまでで、「実は稼げる」ぐらいの穴場感がありました。

自分も特にお金稼ぎのために言ったわけではなく、基本的には「語学力(英語)の向上」を期待していきました。もちろん、最低時給が当時でも20ドル前後あったので、仕事をするなら給料がいい国に行きたいという気持ちもありましたが(笑)

あと自分は暖かい場所が好き(寒いのが苦手)なので、そういった意味でも年中暖かい(場所もある)オーストラリアを選んだ記憶があります。

紆余曲折あり、1年間は遊牧民かのように移動する生活を過ごしていました。

    1. シドニー(4月~6月)
    2. ブリスベン(7月~10月)
    3. タスマニア(11月~2月)
    4. キャンベラ(3月)

この記事では、上記の移動の流れを時系列で細かく振り返っていく内容になっています。これからオーストラリアワーホリをしたいなと考えている人にとっては、1つの参考例になるかと思います。

それでは本題に入る前に、当時の自分のステータスを前提条件として書いておきます。

ワーホリ直前のステータス

  • IELTs5.5、TOEIC600点ぐらい
  • 軍資金約20万円(航空券、ビザ代は別)
  • 現地のツテはなし

とまぁ、お世辞にも余裕がある状態ではなかったです。英語もまともに話せないし、お金も向こう2ヶ月ぐらいの生活費ぐらいしかなかったです。仕事見つからんかったら、文字通り「死」が待ってました(笑)

英語話せないとはいいつつも、ワーホリ直前の1ヶ月でフィリピンのセブ島に語学留学をしていました。ここで英語を話すことに抵抗感はなくなったものの、今振り返ると、やっぱ実生活で使う英語と学校で学ぶ英語は違うな、、とつくづく思います。

ワーホリでは英語は話せるに越したことはないので、事前にできるだけ英語力をつけてからワーホリにいった方がより楽しく充実した1年間になるはず。

約20万円の日本円を現金で、恐る恐るカバンに潜ませながら渡航したのを覚えています。シドニーに着いてからすぐに銀行口座を作って、入金しました。

あまりお金もないので、語学学校に通わず、シェアハウスや職場で英語を磨こうと思っていました。後述しますが、これが功を奏して、コスパよく英語を学ぶことができました。

英語力は並程度、貯金20万、現地のコネはなし。

そんな僕がどんな1年間を辿ったのか、これから書いていきます。まずはマサラタウン(シドニー)での3ヶ月間から。一言でいうと、挫折の毎日でした。

【経験談】大学生がオーストラリアワーホリをする流れについて解説する。
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シドニー(4月~6月)

シドニーでは4月から6月の約3ヶ月間滞在しました。当時は、シドニーには半年間ぐらいはいるつもりで、元々この遊牧民的生活は全く想定していませんでした。

シドニーでの生活は、毎日挫折の連続で、自分の力の無さを真っ向から受けていた気分でした。この3ヶ月間が、今の生きる糧になっていますので、めちゃくちゃ感謝している思い出深い街です。

ワーホリ初の宿はゲストハウス

当然、オーストラリアに住む場所がないので、まずはシドニーのシティ中心にあるとあるゲストハウスに1週間滞在しました。オーストラリアに着いてからはこのタイムリミット「1週間」の間に沢山やることがあって、四苦八苦してました。

空港に降り立ち、SIMカードを書い、シティまでバスに向かい、ゲストハウスにチェックインし、銀行口座をつくり、、と慣れないことをした初日は今でも忘れない。

そこから1週間の間に、まずは住むシェアハウスを探しました。使ったサイトは「Flatmates」というところで、オーストラリアの家探しには重宝します。ここでいいなと思ったシェアハウスのオーナーさんに電話かテキストメッセージで連絡を取り、inspection(内覧)の予約をします。

10軒ぐらい内見をして、選んだ家が、、言葉を選ばすにいうと「ハズレ」でした(笑)

初めてのシェアハウスは中国人のゲイの方々が集まる場

シティから近い、家賃が安い、オーナーさんの雰囲気がいい、家が割とキレイ、といった理由でここに決めました。しかし、大事なところを確認していなかった。「シェアハウスメンバー」です。

もちろん、シェアハウスなので、見知らぬ人と同じ部屋で寝るわけです。当時はじめてのシェアハウスだったこと、色々と疲れていたこともあり、「どんな人が住んでいるのか」まで頭が回ってませんでした。

住んでみてびっくり。ハウスメンバーが全員中国人で、しかもゲイの方々。あ、全くもってゲイを否定するつもりはありませんし、むしろここで凄く良くしてもらったので(変な意味はなくw)、なんの偏見もありません。

問題だったのは、、「言語」です。僕は英語を勉強したかったにも関わらず、家で英語が伝わらず、聞こえてくるのは中国語ばかり。

「まぁ仕方ない、、」と仕事が見つかるまではここで住もうと、結局1ヶ月は住みました。オーストラリアのシェアハウスには「minimum-stay」というものがあり、最低この期間は住んでね、という決まりを設けている家が多いです。

こちらのシェアハウスはminimum-stayが1monthだったので、最短で家を出ました。

予想の100倍ハードな仕事探しで絶望

オーストラリアに着いてからは意気揚々と希望に満ちていました。しかし、いざ仕事を探し出してみると洗礼を受けます。

「仕事が見つからない、、」

レジュメという履歴書を片手に、来る日も来る日も飛び込みでレストランやカフェに自分を売り込む毎日。朝と夜はオンラインで求人募集が出ているものに申し込む。件数で言えば、おそらく300件は累計でアタックしたのではないでしょうか。

返事が来たのは、、なんと5件のみ。コンバージョン率は1.7%です(笑)

日本のタウンワークでバイト応募したらほぼ100%返って来ますので、僕がどれほど甘くみていたのか、想像するのは難しくないでしょう。

まぁその原因として、まず英語が上手く話せない。そして日本での職務経験が飲食店のバイトと塾講師の2年間のみ。バイトからでも「即戦力」を求めるオーストラリアの職文化では、こんなどこの馬の骨かも分からず、英語も話せない20歳の日本人を雇う意味はないですからね、、

返事が来たところは、レストランやカフェのkitchen-hand(皿洗い)ばかりで、どこもよっぽど人が足りていないか、職場環境が悪いところばかりでした。

日本食レストラン、オーストラリア料理レストラン、イタリアンで働きました、激務に激務で、シェフが気難しく、バイトがすぐに辞めてしまうところでした。

僕も僕も余裕がないので、何とか生きるために仕事を続けて、もらったチャンスはものにする気持ちでした。結局、イタリアンはクビになり、オーストラリア料理レストランはシェフと喧嘩して自分で辞めました(笑)

残った日本食レストランで3ヶ月働きました。どこのお店かは念のため書きませんが、意外と日本人のスタッフが少なく、時給もよく(24.5$)満足はしていました。ただ、、キッチン内での人間関係がすこぶる悪く、、楽しくはなかったです。

朝から晩まで、無心で皿を洗い、重い食材を運び、ゴミを捨てに地下と店を往復する毎日。ただお金のためだけに働きました。ここでは文字通り「忍耐力」を身につけましたね。

シェアハウス2軒目はヨーロピアンとイヌとの生活

上の仕事で苦しみつつも、同時期にシェアハウスもお引越ししました。中国人ゲイハウスから、お次はフランス人、イタリア人、チワワ(犬)が住むシェアハウスへと。

職場(日本食レストラン)が近い、歩いて10分のところでした。

1つの部屋に2段ベットが2つ置いてある部屋でした。同部屋にはイタリア人3人と僕。上の階にはフランス人が2人住んでいる家でした。みんな仕事をしていて、朝から働く人もいれば、深夜に働く人もいて、みんなが揃うことはほとんどありません。

お互いちょうどいい距離感で、仲良くもなく、仲悪くもなく、、ただ同じ場所を共有しているような感覚でした。一番会ってたのはイヌだったと思います(笑)

シドニーの冬が寒いことに気づき、移動を決意

仕事もキツく、シェアハウスも無味乾燥で、シドニーという都会にも飽き飽きしてきていた頃、もうオペラハウスを見てもなんの感動もしなくなってきていました。

さらに追い打ちをかけるように、シドニーに冬がやってきました。

当時バカだったので、シドニーも年中暖かいと思い込んでいました。日本と季節が逆なので、6月になるともう初冬という雰囲気がしてきます。コートを着ないと寒くなってきました。

せっかく1年間しかないワーホリ、いろんなところを見てみたい。

そんな思いで、シドニーを出ることにしました。僕は決めたら行動は早い方なので、すぐに仕事を辞めました。次はどうしようかと考えていたところ、同時期にたまたま幼馴染がメルボルンにワーホリで来ているということで、その子の家に居候させてもらうことにしました。

シドニーからメルボルンは結構遠いです。飛行機で移動するのが普通です。

なにを血迷ったのか、「ヒッチハイク」でいくことにしました。今思うと、かなり危険なことで、絶対におすすめしませんが、当時の自分は若気の至りといいましょうか、とにかく旅がしたい気持ちになっていました。

結局3台を乗り継いで、無事に1日もかからずにメルボルンに到着し、友人宅での生活が始まります。

1週間のメルボルン生活

友人宅でのメルボルン生活。シドニーよりも南に位置しているので、より寒いです。寒さにやられながらも、久しぶりに会った気のおけない友達と話が盛り上がり、シドニーでボコボコにさらたメンタルも回復してきました。

短い時間でしたが、メルボルンを観光し、いいリフレッシュになりました。

「冬でも暖かいところに住みたい」ということで、オーストラリアの北にあるブリスベンに移住することを決めました。あいも変わらず、現地にツテはないので、また1からのスタートです。ただ、シドニーで3ヶ月間いろいろと失敗したおかげで、ブリスベンは「強くてニューゲーム」のような状態でした。

続いて、ワーホリ期間の中でも、一番充実して楽しかったブリスベン生活について書いていきます。

ブリスベン(7月~10月)

ブリスベンでは7月~10月の3ヶ月間の滞在でした。シドニーも同じ期間の滞在だったのですが、ブリスベンでの方が圧倒的に楽しく充実した毎日でした。

それもシドニーでの「失敗」があったからで、学びが多い日々でした。

ゲストハウスからのシェアハウス探し

新しい街に住むのは2回目なので、もう手慣れたものです。まず1週間のゲストハウスを予約し、その期間にシェアハウスを探します。「Flatmates」で家を探し、オーナーに連絡し、内見の予約を入れる。気に入れば入居。

シドニーでの経験も踏まえて、今回はしっかりシェアハウスメンバーの情報も細かく聞き、タイミング合えば入居前に先住者と話すことも交渉しました。

シドニーでは1つの部屋を複数人でシェアする「シェアルーム」でしたが、ブリスベンは家賃も安いので、1つの部屋を1人が使う「プライベートルーム」を選びました。

これで毎日のストレスが格段に減り、QOLがかなり上がりました。

シェアハウス内には自分を含めて4人が住んでいて、韓国人、イギリス人、オーストラリア人でした。みんな素敵な方々で、初めてシェアハウスの楽しさをしりました。お互いの友達を家に呼んでパーティをして、友達も増やせました。これぞシェアハウスの醍醐味です。

いい家に恵まれ、そしていい仕事にも恵まれます。

ブリスベンで仕事探し

シドニーで相当苦しんだ仕事探し。ブリスベンではシドニーでの経験を踏まえて戦略を練りました。それが功を奏して、2週間で仕事を見つけることができました。

何をしたかというと、、、「人脈づくり」です。

逆説的ですが、オーストラリアで仕事がほしければ、まずは仕事探さないことです。「???」と思うかもしれませんが、まずは前のめりに仕事を探すのではなく、毎日を楽しんで友達を作ると、自然と仕事の話が舞い込んできます。

ここで感じたのはオーストラリアは完全あるコネ社会だということです。言語交流会、サッカーやフットサルのコミュニティ、各種イベントに毎日参加し、ブリスベンではまず人とのつながりを増やしました。

ちなみに、シドニーではほとんど友達がおらず、シェアハウスメンバーも仲良くはなく、仕事探しはすべて自分1人で突っ走っていました。これが上手く行かなかった原因のようです。

ブリスベンで結局2つ仕事をしましたが、どちらとも友達からのタレコミ情報で、「〇〇で人探してるらしいよ」という話を聞いたのがきっかけです。

ローカルカフェでの仕事

ブリスベンでまず仕事を見つけたのは、偶然にも家から歩いて5分のカフェでした。シェアハウスメンバーから、「家の近くのカフェで求人募集しているらしいよ」と情報をもらい、早速行ってみることに。

シェフがいたので、そのまま話しかけ「仕事探してるんやけど、、」と伝えると、「明日から来れる??」とトントン拍子に仕事が決まり、僕は唖然としていました。(こんなあっさり仕事決まるんや、、、)

シドニーで苦しんだ仕事探しが嘘のように、ブリスベンでは一瞬で仕事が見つかりました。もうこれは「運」が良かったという他ありません。

職場はローカルのカフェで、地元に愛されるこじんまりとした場所でした。毎朝来るお客さんは常連さんばかりで、すぐに顔を覚えてもらいました。同僚は全員オージー(オーストラリア人)で、皆さんとても優しかったです。

英語が流暢ではない自分にみんな優しくしてくれ、ここでかなり英語力がついたと思います。

仕事のポジションはシドニーと同じく「Kitchen-hand」でしたが、皿洗いだけするわけじゃなく、調理の補助や接客までさせてもらいました。ここで3ヶ月働くことができたのが、ワーホリの中でも一番良かったことかもしれません。

イベントスタッフの仕事

ひょんなことからカフェとは別の、イベントスタッフの仕事が決まります。言語交流会で知り合った友達が、毎年ブリスベンで期間限定のイベントが開かれると教えてくれました。

しかも、そこで毎年短期の仕事が募集されるようで、「応募してみたら?」とアドバイスをもらいました。恐らくここで教えてもらえなければ、この仕事には出会っていなかったでしょう。やはりオーストラリアでは人が仕事を持ってきてくれます。

募集はオンラインでされていたので、すぐに申し込みました。すると翌日には返事がきて、インタビュー(面接)の日程が組まれました。そのイベントは世界各国の「Noodle」を提供する祭りのようなもので、僕は日本食の屋台に入ることになりました。

担当は「Gyoza-chef」です(笑)

はい、毎日ひたすら数百個の餃子を焼いていました。まさかオーストラリアで餃子の焼き方を学ぶとはつゆ知らず、意外な特技を身に着けました。ここはCasualでの雇用形態なので、比較的給料もよく(時給28$)、まかないもあったので、大満足でした。

働いているメンバーも多国籍で、めちゃくちゃ仲良くなり、毎日仕事が楽しかったです。

さらにここでの出会いがこの先のワーホリ生活を大きく左右することになるとは、当時の自分はまだ予想していませんでした。

ブリスベンでの成功のカギは人脈づくり

仕事探しの冒頭でも書きましたが、ブリスベンでいい生活ができたのも、全てはいい出会いがあったからです。シドニーで孤独に戦っていたときと比べて、ブリスベンではたくさんの友達に助けられました。

ブリスベンに着いてからまず参加したのは次のような集まりです。

  • MeetUpにて言語交流会イベント
  • 図書館主催の英語勉強会
  • フットサルイベント
  • 地元のサッカーコミュニティ
  • シェアハウスのパーティ
  • 日本人コミュニティ

FacebookやMeetUp、SNSや街の掲示板などで、ひたすら自分に合いそうなイベントかコミュニティを探して参加していました。積極的に人に話しかけるようにして、できるだけ多くの繋がりを作るようにしました。

2週間ほど通い続けると、自然と仲の良い友達ができます。

そこから友達の友達を紹介してもらい、芋づる式でコネクションを増やすことができました。ここでの経験が、いまでも新しい環境に身を移すときのお作法として自分の中に染み付いています。

ぜひ参考にしてみてください。

ブリスベンからメルボルンへ

ブリスベン生活も3ヶ月が過ぎようという時、僕はもうこのままずっと残りの時間はブリスベンに住もうと考えていました。それぐらい居心地がよく、学べることも沢山あった環境だったので。

ただ、ここで1つの転機が訪れます。

先程書いたイベントスタッフのお仕事のオーナーさんから突然電話がかかってきました。

「来月、メルボルンで仕事あるんやけど、来る??」

初めはどういう意味か分からなかったですが、話を聞いていくと、このイベント自体がオーストラリア中をサーカスのように点々としていくものらしく、今月はブリスベン、来月はメルボルン、といった予定で動いているそうなのです。

もちろん、シドニー、パース、キャンベラなど、その他の主要都市で開催されるらしく、年中どこかでこのイベントが開かれているような状態。

それで11月の2週間ぐらい働かないかとお誘いをもらったわけです。しかも、ブリスベンからメルボルンの交通費、そしてメルボルンでのホテル代をすべて出す、と言ってくれている。

こんなチャンスはない、、と二つ返事でYESでした。

ここで迷います。メルボルンでの仕事が終わったあと、ブリスベンに戻るのか、もしくはメルボルンに残るのか、はたまた別の都市に移動するのか、この3つの選択肢がありました。

セカンドビザ取得のため、ブリスベンは離れることに

オーストラリアワーホリは基本的には1年間のビザです。しかし、「特定の仕事」に3ヶ月間従事すると、2年目のビザ(セカンドビザ)を申請する権利が得られます。僕はこの半年間でオーストラリアが大好きになっていたので、このセカンドビザは是が非でも取得したかった。

なので、ブリスベンは好きでしたが、セカンドビザを取得するため、残りの期間は「ファームジョブ」をすることにしました。

メルボルンでのイベントスタッフが終わり、次に選んだのはタスマニアでした。オーストラリアの最南端にある離島です。ちょうどこの時期(11月~12月)はブルーベルーのシーズンだと聞きつけ、さっそくタスマニアに向かうことにします。

タスマニア(11月~2月)

タスマニアには約4ヶ月住んだことになります。ブリスベンと同様、本当に楽しい毎日で、何もかもが充実していました。ブリスベンがちょうどいい都会だとしたら、タスマニアは「超」がつくほどのド田舎です。

タスマニアまではメルボルンからフェリーで移動しました。実は前半で出てきた日本人の幼馴染と一緒にタスマニアに渡っています。車をフェリーに乗せ、島に渡る経験は初めてだったので、どこかワクワクした気分だったのを覚えています。

タスマニアでの仕事探し

さて、また新しい土地に住むので、「家」と「仕事」を探さなければいけないです。これまではまず家から探していましたが、今回は話が違います。「ファームジョブ」というやりたい仕事が決まっていたので、まずは仕事を探して、その近くに家を探すという順番でした。

タスマニアでは「Costa」というオーストラリアでは最大手のファーム会社で仕事をGETしました。Costaはオーストラリアの中で最も信頼のある農業の会社なので、セカンドビザが取りやすいことで有名です。

ここの公式サイトから仕事の求人に応募すると、induction(説明会)の日時が送られてくるので、それに合わせてタスマニアに渡りました。仕事開始まではしばらく1~2週間時間があるみたいなので、この期間にタスマニア1周旅行をしました。

毎晩キャンプをしながら、オーストラリアの大自然を満喫していました。

ブルーベリーファームでの仕事内容

Costaでの仕事が始まりました。1日の流れはざっと次のような感じです。

  • 5:00:起床
  • 身支度と朝ごはん、弁当作り
  • 5:45:出発
  • 6:30:始業
  • 15:00:終業
  • 帰りにチェリーアイスを食べる
  • 16:00:帰宅
  • イッヌの散歩
  • 18:00:晩ごはん
  • 20:00:NetFlix or 勉強
  • 22:00:就寝

毎朝5時に起き、22;00には寝るといった健康的な生活を送っていました。仕事は超ハードで、完全なる肉体仕事です。ブリーべリーを摘んで運び、摘んでは運び、、の連続です。

給料は時給ではなく、歩合制でした。その日のフルーツ量によってレートは変わるのですが、平均1kgで3~4$でした。日によって摘める量は変わるのですが、多い時で120kg、少ない時で40kgと幅がありました。

なので、日給でいうと、最高で500$、最低で200$といったところでしょうか。Costaのいいところは、どれだけフルーツがなくても、国が定めている最低時給を下回らないようにレートで調整してくれるところです。

個人経営のファームでは、全く稼げず、家賃でむしろマイナスになる、、といった闇深い話も聞くので、Costaのような大手の会社で働くことを強くおすすめします。

タスマニアでのシェアハウスは部活の寮生活のよう

タスマニアでのシェアハウスは、職場(ブルーベリーファーム)が近い場所でした。なので、自然と同じ職場で働く人がここに集まります。シェアハウスメンバーは全員同僚でした。

日本人、韓国人、台湾人、チリ人、オーストラリア人、バカイヌ1匹、といった構成でした。

朝から晩まで一緒に行動するので、まるで部活の寮生活を彷彿とさせるものがあります。苦楽を共にするので、もちろん文化の違いから合わないこともありましたが、なんだかんだ仲良くなり、今となっては良い思い出です。

週末にはハウスメンバーでBBQをしたり、海で遊んだり、キャンプしたり、釣りに出かけたりと、アウトドアを満喫していました。

無事にセカンドビザの要件を満たし、次の街へ

2月末、ブルーベリーのシーズンが終わります。2月に入った頃からは、フルーツがなくなってくるので、既存のピッカーさんはどんどんクビにされるか、自ら移動するようになります。

Costaはブルーベリーだけでなく、他の果物や野菜もオーストラリア各地で育てています。なので、どこかで必ず求人が募集されています。ブルーベリーファームもオーストラリア各地にあり、季節によって取れる時期が異なるので、「ブルーベリーピッカー」として1年間移動しながらオーストラリアを働きながら旅することだって理論上、可能です。

僕は2月末ギリギリまで働き、ワーホリ生活も早いもので、残り1ヶ月となりました。

ここで、本記事3度目の登場になりますが、あの「イベントスタッフ」が3月にキャンベラで開催されると連絡を受けます。ということで、今回もタスマニアからキャンベラの交通費、そしてキャンベラでの滞在費も出してもらいながら、最後の街で、最後の仕事に就くことになります。

キャンベラ(3月)

キャンベラには3月のはじめの2週間ほど滞在しました。今回はイベントが短期間での開催で、10日間だけだったからです。

3度目の参加なので、僕も「ベテラン枠」として招集がかかっていて、餃子を焼くだけでなく、イベントの管理まで任されるようになりました。その分お給料も上がっていて、日本帰国前にお小遣い稼ぎができました。

そして、イベントのスタッフ常連のメンバーとも勿論仲良くなっていて、仕事中は働いているのか、友達と遊んでいるのか、よく分からない感覚でした(笑)

無事に何事もなくイベントを終え、キャンベラ観光も満喫し、日本への帰路につきます。キャンベラからブリスベン、シドニーへと、これまでお世話になった人に挨拶をするため、各都市に数日間ずつ旅行しました。

シドニーでは、1年前にオーストラリアで初めて宿泊した同じゲストハウスの同じ部屋、同じベットに泊まりました。ここ1年間振り返ると、感慨深いものがありました。

そしてシドニー空港から帰国しました。日本で緊急事態宣言が発令されるちょうど1週間前に帰国できたので、隔離はなく、家まで帰れたように記憶しています。

さいごに

いかがだったでしょうか。ざ~~っと思い出すままに書いていったので、読みづらいところも多々あったかと思います。ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。

日本の都会で生まれ育った当時20歳の自分には、オーストラリアという見ず知らずの土地が刺激的でした。毎日新しい発見と驚きの連続で、自分自身、細胞単位で変わっていってるんじゃないか、、と日々感じていました。

いま振り返ってみてオーストラリアワーホリで獲得した「力」は3つあります。

  1. 忍耐力
  2. サバイバル力
  3. コミュニケーション力

この3つは数値では表せない内面的なものですが、だからこそ、こういった海外や知らない土地に飛び込むこと経験からでしか身につかないように感じます。

忍耐力。仕事がほしいと願っても、英語力や経験がないからと断られる毎日。それでもめげずに毎日仕事を探し続ける。

サバイバル力。英語力、お金、人脈、、と何もない0のところから生活環境を自分の力で作っていく。とにかく自分がアクションしないと、周りから何もリアクションが返ってこない。誰も助けてくれない状況で、まず自分が行動するしかない。

コミュニケーション力。相手が何を言っているか分からないと、何も進まない環境。とにかく言葉以外のノンバーバルな部分(目、表情、体の向き)などから、相手がどんな気持ちで何を言いたいのか、推測する力。相手の目を見て話を聞き、分からないことは何回でも聞く。

こういったことを意識せざるを得ない環境。それがオーストラリアワーホリだと思います。なるべく多くの人と出会って、人から情報をもらうことがワーホリ成功の秘訣です。何を持って「成功」とするのかは、あなたの目標をどこにセットするか次第ですが、、

長くなりましたが、ここで締めたいと思います。

次、もしセカンドビザで行くことがあれば、ラウンドトリップでオーストラリア1周がしたいです。

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